■幼少期~10代(サッカー馬鹿から思い込み馬鹿へ)
1971年(昭和46年)、48歳。久米生まれです。
父は船乗り、母はパートで妹が1人と平凡な家庭で育ちました。
蓮生・まこと幼稚園→ 久米小学校→太華中→徳山北高。
 
小学校からは大好きなサッカーばかりやってました。他のことは何も考えてなかったと思います。
 
サッカーをするためだけに久米から須々万までバス通学していた高校2年の時に心から信頼していた恩師であるサッカー部顧問の先生が転勤したことで自分の中の何かがバランスを失い、サッカーから離れて不健全な遊びに夢中になってしまいました。
 
それから徳山市内で水商売のバイトを始めました。当時の自分に合っていたんでしょう、すっかりハマってしまいバイトに明け暮れました。
水商売なので夜中に働きます。日中の学校に通わなくなるのに時間はかかりませんでした。
そして湧き出る「No.1ホストになりたい」というクレイジーな夢。
極端に視野が狭い橋本少年には、それ以外は一切何も見えませんでした。
 
両親の反対も聞かず、学校を辞めて周南市(当時徳山市)を飛び出しました。
しかし東京や大阪で生活の拠点を築く軍資金が無かったため、広島で住み込みで雇ってくれた「看板製作工場」で働きました。
高校中退して家を飛び出して来たガキが貰える給料なんて知れてるし、やりたい仕事ではなかったけど、明確な目標があったのでどんなことでも耐えることが出来ました。
 
1年半に及ぶ徹底した節約と我慢によって手にした軍資金を握りしめていよいよ日本有数の水商売のメッカ、大阪はミナミへと乗り込み、格安カプセルホテルや野宿をしながら求人誌を漁り飛び込みでホストクラブの面接を受けました。
幸いお試し採用してくれる店があり、後から知ったことですが当時大阪で一番大きなホストクラブで、ありがたいことに寮も付いていました。
こうしてやっと「No.1ホスト」挑戦のスタートラインに付きました。
 
在籍ホストは70名。大阪ということもあり、しゃべくりの実力者揃い。
地方の小さい店でのわずかな経験が通用するハズもなく、他のホストたちを前に何もできなかった。当然指名されることもなく、ヘルプもままならない。本当に何もできなかったのを覚えています。
 
しかし、子どもの頃から負けず嫌いの僕は、約2年半もの間ひたすら下積みを耐え、接客を勉強しました。その結果、少しずつお客様に支持され最終的には最高で70名中5位まで順位を上げることができました。
 

■20代(本当のバカ)
 大阪の有名店でそれなりの結果が出せると、さらなる野望が出てくるものですね。
それは、ホストクラブ文化が乏しかった地元徳山に帰って自分の店を持つこと。
21歳の頃だったと思います。
 
まずは当時流行っていたディスコ「MAHARAJA徳山」に積極的に顔を売り込んで、地元で一番有力だった店舗に入店しました。
激戦区大阪ミナミで学んだスキルがあったので、「徳山No.1ホスト」になるのは困難なことではありませんでした。
その後は好待遇で引き抜かれる毎に店舗を渡り歩き、ついに自分の店を持つことに成功。バブル全盛期ということもあり、右肩上がりで順風満帆でした。
 
しかし、そんな生活も長くは続きません。
当時すっかり天狗になっていた僕は「見栄っ張り」「人の言うことを聞かない」「強情」と典型的な成金野郎になっていました。
付き合う人脈も常識的な人種ではないことが想像できるかと思います。
人気ホストクラブ経営者&人気ホストということもあり、「もっと大きく見せたい」「誰にも負けないくらい強くなりたい」という想いからアウトローがカッコイイと感じてしまったのでしょう。何の抵抗もなく反社会組織の人たちと関わるようになりました。
 
そこからは絵に描いたような転落ですよ。
気が付かないうちに犯罪に加担し、何の違和感も感じないまま危険薬物に溺れ・・・
その頃には従業員の多くが離れ、店は衰退・・・
そして悪事は隠し切れませんね。警察の捜査が入り逮捕・2ヵ月間の拘留の後に懲役1年6ヵ月・執行猶予付きの判決。
その間に私の店は、箱も人も跡形もなく消えていました。
もうこうなると誰も関わってくれなくなります。支配していたと思っていた従業員も、仲間だと信じていた関係者も全員・・・目も合わせてくれないどころか電話にも出てくれなくなりました。当然です。
 
さらにその当時結婚していた妻とも離婚し、愛する一人息子とも引き離されました。仕事にかまけて家庭をかえりみず、別れるまで息子とロクに遊んだ記憶もありません。これも当然の結果ですね。
25歳の頃だったでしょうか。
 
今思うと、自らの慢心と勘違いによる勢いを全く制御できていなかったですね。 真っ逆さまに落ちているのに、自分では凄いスピードで上昇しているつもりだったんですよ。
 
 
僕は人生をやり直そうと考え、ほぼ無一文の状態から今度は東京でチャレンジすることを決意しました。
もちろん両親に猛反対されたのは言うまでもありません。しかし親の有難さを理解できていないクソ野郎が自暴自棄になっている状態で聞く耳を持つことはありませんでした。
 
かろうじて東京には着いたものの、ツテも無ければ計画もない。金も仕事も住居も知り合いの1人すらいない。本当に何もないんです。
 
その日暮らしの収入を得ないと生きてさえいけない状況のなか、コンビニで立ち読みしたスポーツ新聞の求人広告を手掛かりに「日払い」「寮付き」「即採用」の仕事を転々としました。
この条件で前科持ちが求職するのですから、採用してくれる会社は良くても法律スレスレ。清々しい程に違法な会社も当たり前にあるんですよ。あとは生命かける系ですね。
 
とはいえ、その日を生きるために何でもやりました。割りに合う・合わない、安全・危険、法に触れる・触れない、そんなこと考えている場合ではなかった。
バイトをいくつも掛け持ちしての身を削りながらのその日暮らし。
もちろんホスト業にも就きましたが、既に体力も気力も情熱でさえ残っていませんでした。
そこは東京新宿歌舞伎町、そんなバカはあっという間に餌食にされます。
気が付けば雑居ビルの一室で電話番。
徐々に、そして流れる様に自然に「反社会的組織」に取り込まれていきました。
 
反社会的組織での生活はさすが東京のド真ん中、多種多様なシノギ(仕事)があり刺激的でした。
ボッタクリのような昔からあるわかりやすいものから、ハイテクを駆使したカード詐欺、中国人を使った壮大で組織的な犯罪もありました。
「掛け持ちバイトで生命を危険に晒さなくても飯が食える」「ネズミやゴキブリが這っていない寝床で眠れる」ことに安心感を覚え、この生活にドップリとハマっていきました。
 
言うまでもなく、この期間は両親と連絡を取ったことはありません。
人様に迷惑をかけることに麻痺して罪悪感も薄れてきたある日、僕の留守番電話に母親が泣きながら残してくれていたメッセージを今でも忘れられません。
 
「生きていますか…?何をやっていても構わないけど、生きているなら声だけでも聞かせてほしい…」
 
この時、母親に応える勇気が僕にはありませんでした…。
 
 
こんな生き方がいつまでも許される程、世の中甘くありませんよね。
僕はあえなく2度目の逮捕・拘留の身となりました。当時はまだ執行猶予期間中だったので裁判の結果2刑期分の長い懲役を言い渡されました。
 
両親は僕の生存を、再度逮捕の知らせで確認することになりました。本当に酷い話です。
当時26歳だったと記憶しています。
 
 
まだ若いことから少年刑務所に送監され、その後に医療刑務所に移送されました。これは僕自身が病気だった訳ではなく、看護雑務を担当するためです。全国の治療が必要な収監者が集められる施設です。
与えられた仕事内容ですが掃除や食事の運搬、修繕作業はもちろん、こういう刑務所なので頻繁に受刑者が亡くなるんですよ。多い時期には何日も連続で。
そのご遺体をベットから抱え上げて遺体安置室まで運ぶような仕事も数えきれない程やりました。そのまま死に装束への着替えや所内での葬式まで立ち会い作業を行うんです。
多くのご遺体はその性格上、家族や身内すら葬式に来ません。愛する者からも見離され、後悔と自責の念の中でひっそりと生涯を終えるのです。
 
計3年以上を刑務所で過ごし、「命の尊さ」と同時に「好き勝手生きた末の結末」を痛いほどに見せつけられ続けました。
さらに規則正しく生活することの意味や整理整頓が心に与える影響等、これまでとは真逆の生活の中で自分のしてきた生き方がどれだけ愚かなものなのか、否が応でも認めざるをえませんでした。
「因果応報」この言葉が身に沁みました。
 
 
そして真面目に勤めていたことを評価され刑期満了より少し早い出所の日。
身柄引受人として迎えに来てくれた母をみて愕然としました。
そこには連絡を取っていない13年以上の間に年老いて変わり果てた姿・・・
僕が最後に母と会ったのが高校生の頃。若々しい母の記憶しかなく、この時僕は既に30歳。
それだけの期間、実の息子から想像を絶する理不尽な心痛と苦労をかけ続けられ身も心もボロボロになった姿が目の前に・・・
それでも絞り出した笑顔で迎えてくれた母の愛情とありがたさを知るにはあまりに遅すぎましたが、生まれて初めて涙が溢れ出たのを覚えています。
 
 そして細く、小さくなってしまった母と共に周南市へと戻ってきました。

■30代(社会復帰、再度堕ちる)
出所後、現実を突きつけられましたよ。まともな会社は手に職がなく資格もない、ましてや刑務所上がりでは就職させてくれるところなんてないんですから。
当然です。しっかりと学校を卒業して社会人としてコツコツ真面目に頑張ってきた人たちと同等の待遇や環境が得られるハズがないですよね。
ありつけたのは誰もがやりたがらない3K職場で社会保険もない、低賃金で奴隷のように使い潰される毎日でした。
 
次第にそんな生活にも耐えられなくなり、仕事も行かなくなりました。再び堕落生活が始まります。
そんな状況で類友の法則が発動します。クズはクズを呼び寄せるんです。
簡単に高報酬を貰えるバイトだと誘われたのはヤクザ事務所の電話番でした。一度痛い目を味わってるにもかかわらず「今度は深入りしないように」と安易な思考で引き受けました。再び餌食です。
しばらく電話番を続けていると、お約束通り本職へのお誘いがかかります。
しかし刑務所での経験や、迎えに来た母の記憶映像もチラつき「それだけは申し訳ございません」と断り続けました。
しかし相手は百戦錬磨の本職です。世間知らずの若造をたぶらかすことなど赤子の手を捻るが如しなのでしょう。巧みな話術で気が付けば組事務所に名前入りの木札が掛かっていました。
再び「反社会的組織の橋本」始動です。
誤解のないように弁明しておきますが、今回は決して望んでなったわけではないんです。反社会的組織は目を付けられた時点でアウトなんです。余程のスキルがない限りあっという間に絡め取られます。
そして、一度入ってしまうと抜けるのは容易ではありません。泣き言を言って辞めたいと言おうものなら、指を無くすかまとまった現金を納入するかの二択です。
僕には金も用意できないし、指を落としたくもない。警察に相談したところで24時間護衛してくれるわけでもないし民間のガードマンを雇う金もない。
もう自分の力ではどうにもならない状況で、毎日気が狂いそうでした。
 
そんなある日、食事のために立ち寄った飲食店で中学の同級生と再会しました。もちろん反社会的組織のことは隠していました。「まだサッカー続けてるんだ」と嬉しそうに話す彼に思わず「僕も誘ってほしい!」と反射的にお願いすると快く誘ってくれました。
僕は急いで道具を買い揃えて意気揚々と会場に向かいました。くしくも場所は中退した母校、徳山北高校グラウンド。OB vs 現役のゲームでした。
結果は当然、ボッコボコにやられました。何より長年の不摂生により足がもつれて走れない・蹴れない。本当に悔しかった。
そこで負けず嫌いに火が付きました!チームメイトにお願いして、練習に参加させてもらうようになります。
昔の勘も戻ってきて身体も徐々に仕上がり、再び学生時代の情熱が戻ってくるのを感じました。それだけでは満足できない僕はさらに複数のチームを掛け持ちし、気が付けば毎日のようにサッカーに励む状況になりました。
 
とはいえ反社会的組織の一員である以上、事務所当番や緊急事態へ備えるために電話がかかってきたらいかなる時でも即対応しないと指がなくなります。
サッカーパンツの内側にポケットを作って、例え試合中でも肌身離さずケータイを持ち歩いてましたね。
 
サッカーがしたい・・・
 
人生をやり直そうと思いながらお先真っ暗に陥っていた僕にとってたった一つの生きがいになっていました。
 
どうしてもサッカーがしたい。
 
僕は指を飛ばす覚悟で腹をくくり、若頭に決死の覚悟で脱会の懇願をしました。何度も何度も床に頭を擦り付け続けました。本当に何度も何度も。
そんな僕に若頭は「しばらく山口県からいなくなれ。オヤジ(親分)にはワシが破門したと伝える」と言ってくれました。
真っ当に生きてきた方には理解できないと思いますが、組員を逃がさず飼い殺しにすることで成立しているこの世界で、これは本当に異例中の異例。奇跡なんです。
僕はこのチャンスを逃したら一生抜けられないという恐怖と焦りを感じながら礼を言い、急いで事務所を飛び出しました。
しばらくは追手が来ないか・連れ戻されないかと不安で気が変になりそうでしたよ。家の外に感じる人の気配にいちいちビビらないといけないんです。ひっそりと暮らしてました。もちろん周南市でサッカーを続けながら。
 
この時ほど普通で当たり前の生活に価値を感じたことはありません。思うように行動できる、生活できる。出所後に耐えられなかった底辺の日雇い労働でさえ「ありがたかった」と感じることができました。
 
 
サッカーに救われた人生。
今度こそ真っ当な人生を歩もうと、肉体労働に汗を流しながらイベンターとして全力で取り組みました。
 
32歳 ビーチサッカーイベントを開始(プレーヤーとしてもJBSNジャパンセレクトとしてUSA大会に出場 ※当時はボクシングのように複数の運営組織があった)
 
33歳 カップリングパーティーを開始(若者出会い促進事業として県知事から表彰実績アリ)
 
37歳 周南フットサルリーグを結成(会員数最盛期約1500名)
 
42歳 玖珂フットサルリーグを譲り受ける(会員数最盛期約300名)
 
46歳 中国フットゴルフ協会発足(周南市共創プロジェクト採択事業として四熊に現在西日本唯一の対応フルコースを整備)
 
これらは幸いなことに今でも愛され継続できています。
大切に育て、失敗と成功を重ねながら真っ当な人生を送れることに感謝しながら幸せを感じて生きています。
 
 

■40代(恩返し)
これまでの人生で得たものを大切に守りながら、散々迷惑をかけた両親への恩返しに何ができるかを模索。今でも返しきれる気がしませんが、残された時間で精いっぱい親孝行しようと思います。
 
 
新たな伴侶も得ました。心から「何よりも大切にしたい」と思えて、そうできているのは初めてじゃないでしょうか。
妻や家族への愛情を見失うことはもうないと断言できます。
 
 
尊敬できる政治家の先生との出会いもありました。その先生が主催する政治塾で周南市が抱える問題点やその打開策、より良い未来の作り方に至るまで学んでおります。賢い方ではない僕の頭脳ですが、僕なりに憂慮し何とか貢献したいと考えております。
その中で、僕には大きな失敗による絶望的状況から真っ当な生活を取り戻した経験値がある。しくじり先生として自分をさらけ出すことで誰かの役にたちたい。
そんな活動に尽力することを決意しました。

■最後に
 
常識から無意味に外れてしまう人や法を犯してしまう人って、総じて冷静に自分を評価していないと思うんです。 見聞が狭く、知識が極端に偏っているから「自分が一番正しい」と信じ込める。 冷静に正しく判断したうえでの違法行為を平然とやってしまう人がいたとしたら、それが本物の悪党ですよね。 僕は本当の悪党になれるほど冷静でも博識でもありません。
 
やり直すことを許してくれた周南市で、恩返しのために残りの人生を使いたいと思ってます。

長いばかりでつたない文章を最後までご拝読頂き、有難う御座いました。